汪兆銘関連エントリー

汪兆銘は何故死んだ?

... 因みに汪精衛(汪兆銘)は戦争時代に蒋介石を離れて 親日政府を樹立した国民党の大物です。 知ってるわよ。 傀儡ku〓l〓iでしょ。 ... 古傷の銃創を治すため日本に運ばれた汪兆銘はある高名な医者に預けられた。 そこにはある軍部指令が ...

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汪兆銘と中国共産党、死者の扱い

... 蒋介石率いる国民党政府は、汪兆銘一門50数名を銃殺刑、汪兆銘の墓を爆破した。その爆破されたときの破片を埋葬した汪兆銘のお墓が、実は 東京都の杉並区にある 。それはさておき、もともと汪兆銘の墓があった場所には、周囲を柵で囲まれ手を後ろにして縛ら ...

汪兆銘と中国共産党、死者の扱い

汪兆銘とその娘-

汪兆銘にかんする多くの書物の中で僕がこの本に興味を持ったのは、汪兆銘の娘で後に カトリック の修道女となった汪文彬への著者のインタビューが掲載されていたからである。彼女は自分の経歴については秘して話そうとはせず ...

汪兆銘とその娘-

我は苦難の道を行く―汪兆銘の真実〈上巻〉

我は苦難の道を行く―汪兆銘の真実〈上巻〉 上坂 冬子 汪兆銘について記した本です。書名は、汪兆銘が重慶を脱出するときに、蒋介石あてに書き記した書簡のなかの言葉、「君為其易 我任其難」 (の日本語訳) からきています。 ...

我は苦難の道を行く―汪兆銘の真実〈上巻〉

人物探訪: 汪兆銘~革命未だ成功せず 下

■5.汪兆銘・蒋介石の日中和平路線■ この前年、満洲事変が勃発していたが、汪兆銘は「一面抵抗、 一面交渉」という基本姿勢を示した。その前提は、孫文の遺訓 でもある「日中戦うべからず」であった。 ...

人物探訪: 汪兆銘~革命未だ成功せず 下

汪兆銘とは?

汪兆銘(おうちょうめい、Wang Zhao ming、 1883年5月4日 - 1944年11月10日)は、知日派として知られた中国の政治家。字は季新。号は精衛。
中国では代表的な漢奸(売国奴)の一人として著名である。
広東省三水で生まれ、1901年科挙に合格、1904年に清の国費留学生として日本に留学し法政大学を卒業する。1905年7月に中国同盟会結成に関与、同盟会の機関紙『民報』紙の編集長を務める。醇親王_(第2代) 醇親王暗殺未遂の容疑で1910年~1911年に投獄、釈放後フランスと中国を行き来しながら孫文が袁世凱政府に対して起こした第二革命などに関与。
1924年に中国国民党中央委員・宣伝部長に選出。1925年7月に広東国民政府が成立すると、国民政府常務委員会主席・軍事委員会主席を兼任した。しかし中国共産党との合作を進める汪は、浙江財閥の支援を受け反共政策を採る蒋介石と対立。1927年、武漢国民政府に拠って蒋と一時対峙するが、軍事的に劣勢で財政的裏づけにも乏しく、5ヶ月で共産党と訣別。南京国民政府に参加した。

汪兆銘の詳細